#08 魔狼姉妹

【魔狼】(まろう)
魔力を持つ狼。
古来より「不幸を知らせる動物」と言われており、魔界では黒猫や烏と並んで魔女を象徴する動物とされている。
様々な人や動物に姿を変えることを得意とするが、本来の姿は狼の姿である。
基本的に魔力が弱いため、魔法を使って他を傷つけることはしない。
しかし一生に一度だけ、自分の命を犠牲にして強力な魔法を使うことが出来る。
ところが、普段魔法を使い慣れていないためにその魔法が絶対に成功するとは限らず、過去にも失敗した例が何件か報告されている。
一生に一度の命を賭けた魔法が失敗すると約半分の確率で生き延びることが分かっている。
魔狼の中でも魔力の高い雌を選りすぐり魔女皇帝に仕えさせる事が魔界では昔からの慣わしになっている。
出典:「魔界動物図鑑」
著:M.S.


古城ヴィーンゴールヴの前には人だかりが出来ていた。
女帝が本日付けでこの城に住まう事を聞きつけて野次馬が群れているのかと思いきや、その群れを構成するほとんどがこの世界を支える立場である議員や研究所職員、または私の従者となる者であるらしい。
それならば車を降りて挨拶したいとマルバに申し入れてみたのだが、それには冷ややかな一瞥の後、止めておけとやんわり拒否されてしまった。

「どうして?」
「お前は危機管理がなっていないな。さっきの話を思い出してみろ。いつ暗殺されるか分かったもんじゃないだろう」
「でも、あそこに居る人は皆」
「魔界を守る立場の連中だとでも言いたいのか?それがどうした。まさか政治家なら皆慈愛に満ちた優しい奴らだなんて思ってるんじゃないだろうな。馬鹿馬鹿しい。ちっぽけな正義感を振りかざす政治家のような奴ら程、柔軟性の無い野心をもって女帝暗殺を企てる。いいか。これだけは肝に命じておくと良い。あの魔闘で薔薇女を倒し、お前が女帝として魔界の頂点に君臨したあの瞬間から、お前の味方など何処にも居ないんだよ。勿論僕も例外ではない。立場上どうしてもお前を裏切らなければいけなくなる時が来ないとも限らないからな。精々油断しない事だ」
「そんなの…」
「それが”女帝である”という事なんだよ」

私たちを乗せた白いミニバンは荘厳な門をくぐり、城に続く道を行く。
田舎者には無駄にしか思えないその空間には、豪華の限りを尽くした噴水や庭園があったが、これと引き換えに私はとんでもないものを背負ってしまったようだ。
マルバは大層な玄関の前で車をピタリと止めてドアのロックを解除すると、放心して足を動かす気にもなれない私に代わって荷物を運びいれる作業に取りかかった。
元々、自分で持てるくらいの荷物しか持ってこなかったから、それは一往復で終わってしまったが。

「いつまでそうしているつもりだ」
「私…」
「”帰る”なんていうんじゃないだろうな」

図星を突かれて思わず肩に力が入る。

「言っておくが、この城の中だって絶対に安心だとは言えない。一応我々ウトガルド研究所が発明したセキュリティシステムは作動しているが、魔法の前では科学の力は無力だからな」

恐る恐る彼の顔を見上げる。
いつもの様に、まるで実験の途中経過を眺めるような厭らしい笑みを浮かべていると思っていたのに、そこにあったのは意外にも真剣な表情だった。

「僕は可能性のないものに時間や労力を割くのが嫌いな性分でね。お前の”魔法紋”には何の花が描かれているんだったかな?」

見慣れたものに戻った彼の挑戦的な眼差しの向こうに、純潔の花が見えた気がした。

「百合…白き大輪カサブランカ…」
「そうだ…百合の紋を持つ者は夢幻の魔法を使う。夢幻に一番重要な事は物事を俯瞰する事だ。主観を極限まで排除して観察。そして投影。この魔法を使いこなすお前程の魔女なら、その気になれば敵味方の判別くらい容易に出来るはずだが」

見当違いだったか?

そう言って、マルバは無骨な手を差し伸べた。
”例外じゃない”?
馬鹿じゃないの?
彼の手を取って立ち上がる。

「ウトガルド研究所の所長ともあろうお方が見当違いなんてする訳ないわ」

そうでしょう?マルバ。

*****

ソファに座って溜息を一つ。
マルバはあの後、さっさと研究所に戻ってしまった。
ここまで連れて来てくれたのだから、お茶くらい出すべきだったか。
背もたれに身体を預けて天井を仰ぐと、そこにも細部にまでこだわった装飾が施してあることに気が付く。
じっと見ていると、眠たくなってきた。
どうやら、思いの外長旅に疲れてしまったようだ。
目を閉じて、これからどんな生活が待っているのだろうか等と考えていると…ふと、何処かで絨毯に何かが落ちたような微かな物音が聴こえた気がして。
背もたれに身を委ねたまま頭だけを僅かに動かして部屋の様子を確認する。

息を止めていたのは果たしてどれくらいの時間だっただろうか。
開け放った窓から漏れ聴こえる筈の社会の営みの音が何者かに攫われてしまった様な錯覚。
それなのに、目の前に突如現れたアレ等の野蛮な息遣いはしっかりと鼓膜を通して脳に響いている。

カーテンが風に揺れるのを背景に、私がこの世で一番恐れているモノ…
三匹の黒い犬がじっと私の目を見つめていた。

ゆっくりと立ち上がる。
相手は微動だにしない。
見詰め合う、一人と三匹。
ジリジリと後退して、この部屋から逃げるために後ろ手にドアノブを握った丁度その時、三匹の内の一匹が前足を一歩踏み出した。
その光景から予想される未来があまりにも恐ろしくて、気が付けば私は勢い良く部屋を飛び出していた。
今までの人生を振り返っても、これ程の機敏な動きをした事があっただろうか。
閉めたドアを両手で押さえたまま、荒くなった呼吸を整える。
恐怖で震える指先を必死に静めたくて神経をそこに集中させていると、ドアノブがゆっくりと回るのを視界の端に捉えてしまった。

…回った?
部屋の中には犬しか居ない筈。
と、いう事は…

いいいいいい犬ってドアノブ回せるのかーっ!?

こんな時、恐怖を味わうと声が出なくなる自分を恨めしく思う。
悲鳴をあげれば誰か助けに来てくれるかもしれないのに。
ドアから飛び退いて魔法紋を描き、防壁を作る。
しかしそれだけでは飽き足らず、地面にしゃがみこんで両手で頭を抱え込んで犬の姿を視界に入れないようにギュッと目を瞑った。

直ぐ其処に犬が居るかもしれないと思うと身体の震えが止まらない。
目を開けられない。
しかし、次の瞬間

「あの…女帝殿?」

老人の掠れたような声が聴こえて目を開けると、そこには一人の老いた男と二人の若い女が怪訝そうに此方を見下ろしていた。

「犬が…犬がその部屋の中に居たんですけど…もう居ませんか?」
「ええ…狼なら居ますが犬はおりません」

答えたのは年老いた男。

「お、狼…ですか…」
「はい。狼です」

どうやら狼と犬を勘違いしていたらしい。
そう言われてみれば、狼だった様な気がする。
しかし、狼だと訂正されて怖くなくなる訳がない。
私にとっては狼も犬も一緒だ。

「貴方は狼、平気なんですか?」
「平気かそうでないかと聞かれれば…平気ですが…」

それならこの人に部屋の中の狼を何とかして貰おうと口を開きかけた所で、その意思を遮る様に「平気って言うか、自分の事怖がってたら生きていけませんよ」と、嫌味っぽく言う女の声が響いた。

声の主は、肩につくくらいまで髪を伸ばして前髪を丁寧にピンで左側に避けている女。
歳は自分と同じくらいか…

「自分の事?」

ピタリと動きを止めた。
ようやく落ち着き始めた私を見て、老人はコホンと咳払いをして切り出す。

「我々は魔狼族の者でございます」
「まろう」
「左様でございます。魔女皇帝様に仕えさせるために有能な若い娘を二人連れて参りました」
「魔狼…そういえば、母さんからそんな話聞いたことがあるような…」
「代々、魔狼族は魔女皇帝様にお仕えしているのです」
「そうでしたか」

冷静になって気付いたのだが、三人には喜怒哀楽の感情の起伏が見えなくて、何を考えているのか分からないというのが正直な感想だ。

「この娘達は実の姉妹でして、こちらが、姉のフレア・フリンジド。そしてこちらが、妹のマリエッタ・フリンジドでございます」

先程発言したピン止めの女は妹であった。
活発な印象を受けるのに、無表情と相俟って何だか怒っているようにも見える。
対して、姉は自分よりも幾分年上のようだ。
本当なら優しそうな柔らかい雰囲気を持っているのかも知れないが、妹同様今は感情が読み取れない。

「リリー・ブランカです」

右手を差し出すと、何故か老人は少しキョトンとした後、慌てたように自らも同じ様に右手を重ねた。
後ろに居る姉妹にも同じように手を差し出したが、やはり同じ反応。
その反応の理由が少し気になる。
もしかして、これは人見知りというような可愛いものではなくて警戒されているのではないだろうか。
確かに元は狼なのだから動物が初めて見た物を”警戒”するのはちっともおかしいことではないが…

「では…女帝様の元にしかと二人を送り届けました故、私はお暇させて頂きます。後はこの二人に何なりとお申し付けください」

今来たばかりだというのに何の未練も見せず去ろうとする老人。
横目に姉妹を見遣ると、今にも彼を追いかけて泣いて縋り付きそうな表情をしている。
大変複雑な心境ではあるが、この表情こそ私が初めて見た彼女達の”表情”になってしまったようだ。



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