#05 巣立ち

「リリー。すまなかったねぇ…私のために」

テーブルに肘をつき、両手を祈るように合わせながらリリーにそう言った一人の女。
落ち着いた物腰の割には背筋がピンと伸びていて年の判断がつきにくいが、誤魔化しづらい手の甲の皺から見て初老と言っても決して行き過ぎた見解にはならないだろう。
この女こそ、リリーを”育てた”母であり師匠でもあるメノルカ・ブランカその人である。

「良いのよ、母さん。助かって良かった。それより匿ってたあの人は?確かリーガルさんって言ったっけ?」

リリーの言葉にメノルカは一つ溜息をついて、足元に行儀良く座る黒い犬をチラリと見やった。

「命は助かったんだけどねぇ。世の中そう上手くはいかないもんだねぇ」
「じゃぁ、やっぱりその犬…」
「ええ。”身変わりの刑”よ」

メノルカの口から出たこの「身変わりの刑」。
誰かの”身”を守る為に”代”わって災いを被る”身代わり”ではなく、その人が最も恐れているものの姿に”身”を”変”えられてしまう恐ろしい刑罰で、女だと虫の姿に変えられることが多いらしい。
今まで使っていた言語も変わった後の姿に適したものになってしまうし、知能や寿命もまた然り。
己が何者かを知ったまま人外になった為に、大切な者に大切な事を伝える事も出来ず寿命を迎えてしまうのだ。

それを踏まえると、どうやらこの犬は先ほど二人の会話に出てきたリーガルという、メノルカの昔なじみの男であるらしい。
その顔つきや動向からの判断になるが、やはり自分が何者でメノルカが自分にとってどういう人物なのかはちゃんと理解しているようだった。

「へぇ…リーガルさん”も”犬が駄目だったんだ」
「そういえば、アンタも駄目だったねぇ」

メノルカは呆れたように笑う。

「うん。何か怖くて」
「だから、そんなに離れたところに」

ダイニングテーブルに座るメノルカとその足下に控えるリーガル。
リリーはその部屋の中ではなく、廊下から顔だけを覗かせて母親と会話をしていた。
メノルカの隠居生活に適する様に森の奥にひっそりと建てられた小さな家なのだから思う程距離を空けられていないが、それでもいつでも逃げられる姿勢を取るリリーを見てメノルカは呆れて溜息を吐く。

「全くどっちが怖いんだっていうのよ。ねぇ、リーガル」
「どういうことよ」

娘の少し拗ねた様子を可愛らしいと思ったのは母親だけの秘密だ。
言えば照れて余計に機嫌が悪くなるのに違いないのだから。
メノルカのそんな心の内など知りもしない娘に向けて、でも視線はずっとリーガルに向けたまま、犬の両頬をワサワサと豪快に撫でながら諭す様に話しかけた。

「貴女は魔女皇帝になったのよ?リリー。この魔界の頂点に立ってしまった。魔法は使い方を誤れば、取り返しのつかない事にだってなりかねない。良く考えて行動するのよ」
「はい」
「本当に…いつからこんな世界になっちまったんだろうねぇ。昔はこんなじゃ無かった。リリー。覚えておきなさい。誰かを苦しめるために、私達は魔力を授かったわけではないの。元は誰かを救うための力だった。それが魔女狩りのせいで、魔女のあるべき姿を誤解したまま育った人が増えてしまったのよ。今時の若い子達は皆そう。自分が魔女だってことが、悪いことをしても許される口実になると思い込んでる。そのうち、悪者がもっと溢れかえるようになるだろうねぇ。でも、リリー。アンタは真の魔女の姿を貫いておくれ。私が森の奥でアンタを育てたのには、そういう理由もあるんだよ」
「だから、森の外へなかなか出してくれなかったの?」
「そう。でも、アンタは女帝になってしまった。もう森の中に隠しておくわけにもいかなくなったんだよ。それにね、リリーが女帝になったのには何か意味があるんだって私はそう思ってる」
「意味…?」
「それは自分で探しなさい。きっといつか分かる日が来るわ」

そこで会話は途切れた。

「母さん」
「ん?」
「私…頑張るから」

リーガルだけを目に写すように努めていたメノルカが漸く顔を上げると、大きな鞄を両手に持ったリリーが、行って来ますと不器用な笑みを浮かべた。
最初に出会った赤ん坊の時から今までの思い出が走馬灯の様に駆け巡る。
明日からこの家に娘はいない。

「…行ってらっしゃい」

一瞬リリーの瞳が揺らいだ様に見えた。
行かないでと止めて欲しかったなんて、まだ馬鹿な事を考えてるんだろうか。
暫く名残惜しそうにその場に留まっていたリリーだが、やがて諦めた様に外の世界へと歩んでいった。

玄関扉が閉まる音を聞いた途端。
この家が広くなったような錯覚を覚えて、メノルカはリーガルを抱きしめる。
犬独特の荒い息づかいが、娘を手放して生まれたメノルカの心の隙間を少しずつ埋めて行く気がした。

「また二人暮らしか」



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