#25 ユキ降る夜のキヤツ

昼間に感じていた、この神殿の明るさに対する一抹の不安は杞憂に終わった。
確かにロビーの照明の数は少ないけれど、そのおかげで天窓から差し込む月明かりが幻想的に辺りを彩り、屋内に居ながら月光浴が出来てしまうというなんとも素敵な間取りだったからだ。
月を特別愛している魔女からすれば、これほど素晴らしい家はない。
まるで、魔女がこの領の当主になると最初から決まっていたみたいだ。
実際、この世界には未来を詠む人がいるくらいだから、知っていた可能性は十分にある。
二階へ続く階段の途中に座って空を見上げると、今は丁度三日月が張り出した天窓の中心に見えた。

この家は何もかもが綺麗。
白石とかいう私の護衛をしてくれる人が、私のためにちゃんと管理をしていてくれたのかもしれない。
台所も大きくて使い勝手が良くて申し分ないし…そう…申し分ない筈なのに。
それなのに、こんなにも気分が浮かないのは…やっぱりいつも側に居てくれた二人が居ないからなんだろう。
魔界に置いてきた姉妹は、今頃どうしているのやら。
彼女達の慌てた顔を思い浮かべながら、あたたかいカプチーノを飲んで身体を温めると、ほんの少しだけ孤独が和らいだ気がした。
再度、視線を上に向ける。

「ん?」

今、確かに天窓の向こうを何か白いものが通っていった。
続いて聴こえたのは、微かな…鳴き声?
そっとドアを開けて外に出てみると、鋭く光る双眼と目があった。
正体は白い猫。
念入りに毛繕いをしている彼女(あるいは彼)は、扉が開いたことに気付いて一瞬こちらを見たけれど、すぐに興味を失くしたようで目を逸らしてしまう。
動くたびにふわふわと揺れる真っ白な毛には、よく見ると薄墨でなぞった様な模様が入っていた。

「雪、みたい」

独り言だったのに、猫は耳をピクリと動かすとニャアとふてぶてしく鳴いた。
神界の猫は言葉が分かるのかしら。

「ご飯は食べたの?私は今日一人で此処に居なきゃならないの。良かったら、上がってくださる?」

元より通じるとは思っていないが、暇潰しに言ってみただけだ。
やはり言葉は伝わらないようで、彼女(彼?)は毛繕いを続けていたのだが、私がよいしょの掛け声と共にしゃがんでいた姿勢から膝を伸ばすと、猫も四本の足で立って私を見上げてきた。
試しにドアを開けてみると、スルリと身体を滑り込ませて入っていく。
我が物顔で闊歩するその姿は、警戒しているようには到底見えないから、もしかしたら私がここにくるまでの間、此処で白石に飼われていたのかもしれない。

「ねえ、ユキって呼んでもいい?」

猫は振り向かない。

「何も言わないってことは良いのかな?ユキ…ちゃん?」

ピタリと歩みを止めた猫が、その場で座って私を見つめる。
そこは偶然にも、私が今まで月光浴をしていた場所。
ユキの隣で、お行儀悪く階段の地べたに置き去りにされているマグカップからは、カプチーノの泡が消えて焦げ茶色の液体が覗いていた。
近づいてもユキは逃げやしない。
その上、隣に座ると膝にまで乗ってくれる。
人に余程慣れているみたいだし、ちょっと触ってみても怒らないだろうか。

「えっと…じゃあ、遠慮なく」

両脇に手を添えて上方に力を入れると、ユキの真っ白なお腹が見えた。
しかし、私の目的はその下。

「あら、ごめんなさい。ユキ"くん"、だったのね」

きっとベタベタ触られるのは猫にとってストレスだろう。
飼った事は無いけれど、猫が執拗に構われるのを好かない生き物であるという知識くらいはある。
だから、手早く元に戻してやったのに、ユキは暫くじっと何かを考えるようなポーズをとり、やがて、ふと我に返ると猛スピードで何処かへすっ飛んで行ってしまった。

「ああ…やっぱ猫にも恥じらいはあるか…」

申し訳ないことをしたかしら。
もしお婿に行けないと嘆いているのなら、喜んで私が面倒見ると伝えてあげることにしよう。
うん。それがいい。

しかし、翌朝。
ケロリとした様子で、ユキは私の眠るベッドの枕元に寝ていた。

ふむ…
いつ入ってきたか気付かなかったということは、つまり私より後に寝たということだ。
きっとまだ寝かせておいた方が良いのだろう。
猫の最適睡眠時間なんて知らないけど、私が猫ならもうちょっと寝ていたいと思うもの。
ベッドをなるべく揺らさぬように慎重に身体を起こし、やっとのことで抜け出してみる。
そろりと彼の様子を確認すると、翡翠色の双眼が此方を見ていた。
やっぱり動物の警戒心って鋭いんだなあ。

「おはよ」

鳴き声の代わりに返ってきたのは大きな欠伸。
ピンクの口内と鋭利な牙が見えた。
彼に流れる時間はとてもゆっくりで、一緒にいると私までその流れに巻き込まれてしまいそうだ。
けれど、今日はこんなにゆっくりはしていられない。
オーディンの所に行かなきゃいけないのだから。
早く支度をしなければ、迎えが来てしまう。



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