#22 ヴァルハラ

大理石の白壁に沿ってウルドの背を追うと、やがて壁の内側へ誘う入り口に出会った。
恐らく、白壁は中の建物を敵の侵入から守る為に建てられたのだと思う。
しかし、何故だか入り口には扉が無かった。
訪れた者を誰彼構わず手招くように、来る者全てを飲み込むように、それはポッカリと口を開けていたのだ。

この中に、神界にとって最も核となる人物がいる。

壁の向こう側にあったのは同じ石で作られた大きな神殿。
幾つもの太い柱がぐるりと周りを取り囲んで重そうな屋根を支えている。
その荘厳な様式は、まさに神が住まう場所として相応しいと言えよう。
こうした豪華な建物に出会うと、我が魔界の城とこっそり比較してしまうのも毎度の事だ。

半年近く城で生活しているおかげさまで、最近ではあの歴史を感じる古めかしい外観が愛おしいと思うようになった。
けれど、やっぱり、せめて清潔感のある所に住みたいと思うのは人として当然の願いなのである。
勿論、掃除をしていないわけではない。
魔狼の姉妹は、私の予想以上の働きをしてくれていた。
広い城の中には何十もの部屋があるが、私が普段絶対に使わない部屋でさえも手を付けてくれていたほどなのだから。
けれども、閉めると真っ暗になってしまう分厚いカーテンや毛足の短いオリーブ色の絨毯なんかは、長年の汚れが沈着していて、姉妹が必死に掃除してもあまり綺麗にならなかった。
せめて、このどちらかだけでも取り替えてみれば、少しは綺麗になると思うのだが…はて、これは何処の大臣に言えば叶うのやら。

「此処はヴァルハラ」
「ばる…何?」

随分と自分勝手な「一人建造物品評会」をしていたせいで、ウルドの言った言葉が聞き取れなかった。
今は、この世界の事をちゃんと知るべき時だ。
城の事は、取り敢えず帰ってからマルバに相談しよう。

「この神殿の名前。ヴァルハラって言うの。そして、ここに住んでる一番偉い人の名前はオーディン様。覚えて」
「ヴァルハラにオーディン様ね…オーディン様はどんな人なの?」

ウルドはその質問には暫く沈黙していたが、やがてポツリと「春みたいな人」と回答した。

「春…穏やかな人って事?」
「会えば分かる」

一刀両断。
会話を断ち切られてしまった。
どうやら彼女は無駄話がお好きでないらしい。
仲良くなるのは諦めて口を噤み、周囲を見渡すと、場に不釣り合いな枝垂れ桜を発見した。
残念ながら花は咲いていないけれど、きっと咲いていても、ますますこの世界の感覚の異質さに混乱を来すだけだっただろう。

柱の隙間を抜けた先には明るくて豪華なエントランスがあり、そのまま真っ直ぐの所に大きな扉が見える。
その扉の前で、私達を待ち構えていた者が一人。
これまた西洋建築には似つかわしくない和装の少女で、白い小袖に緋袴といった、所謂、巫女装束に身を包み、美しい黒髪を緩く一つに束ねている。
口元の黒子が何とも扇情的なのだが、彼女自身はあどけない顔をしていて、こんな所までアンバランスだ。

「ウルド様、お待ちしておりました」
「オーディン様は」
「中でお待ちです」

巫女が扉を開ける。
その内部は、部屋というより広間と呼ぶべきか。
奥には十三脚の高座が横一列に配置されてあって、彼はその真ん中にある一等豪華な物に腰を下ろしていた。

「よう来てくれた。漸く…漸く皆が揃ったのぉ」

ウルドが「春みたいな人」と形容したのも頷ける。
その眼差しが。そのオーラが。
善も悪も全てを纏めて包み込んでいるみたい。

「お前さん何処から来なさった?」

重厚な衣服の裾を静々と引きずりながら、彼は言った。

「魔界です」
「ほう…異界とはヨトゥンヘイムのことであったか」
「魔界が昔、そう呼ばれていたそうですね。今ではあまり聞き慣れない名称ですが…」
「長らく絶縁状態が続いておるが、現在も元気でやっておるかの?」

真実がどうであれ、少なからず不和が生じて、神界と魔界は絶縁状態になった筈だ。
それなのに、まさかこんなにも自然に魔界の状態を案じてくれるとは思わなくて。
おずおずと肯定を示すと、老人は柔らかく笑った。
魔女狩りの犯人?
まさか。
こんな微笑み方をする人が治める世界に、そんな惨い事をする人が居るというのか。

「お前さん…名は?」
「リリー・ブランカと申します」
「…ブランカ…とな」
「はい。今は女帝とも呼ばれています」

彼は驚いた様に目を丸くすると、「成る程…女帝とな」と至極愉快そうに笑った。

「失礼は承知しておりますが、早速、貴方にお尋ねしたい事があります」
「何じゃ。言うてみなされ」
「オーディン様は魔女狩りをご存知でしょうか」

すると、ほんの一瞬だけ、彼の纏う雰囲気が変わった気がした。
表情こそ変わらないが、それが却って違和感をもたらしている。
間違いない。
彼は何かを知っている。

「ふむ…そうじゃのぉ…知っておる」
「…現在の魔界では、”魔女狩りは神の仕業である”と考える一派が急速にその数を増やしています」
「ほう…して、お前さんはワシに宣戦布告をしに来た訳か」
「いいえ。私は魔女狩りに対して何の思い入れもありません。国民にそうと知られれば、きっと今以上に反乱が起こるでしょうが…」
「ほっほ。確かに」
「神界と争ったとしても死者は帰りません。それは揺るがぬ事実です。魔界はいつまでも過去に捕われていてはいけない」
「ふむ、お前さんとは気が合いそうじゃ」
「正直な所、魔女狩りは未だ謎な部分が多くて真実に辿りついた者は誰もいません。神界との争いを望む者達も勝手な思い込みで貴方々を敵としているだけです。だから、私は真実を請いに来ました。本当はあの時何があったのか」
「知りたいと申すか」
「はい。例え、罪が神界にあっても魔界にあっても、私は争う気などありません。しかし、治める立場として何も知らないようでは上に立つ資格もないと思ったので」
「ふむ…そうか…魔女狩りの事をのぉ…」
「オーディン様も詳細まではご存知ないのでしょうか?」

私がそう問うと、彼は笑みを深めた。
それがまるで、愛おしいものを思い出して自然と浮かんだような微笑み方だったから。
そんな穏やかな微笑みだったから、私は次に発せられた言葉の意味を、瞬時に理解出来なかった。

「事の発端、犯人、最終的な被害状況。全てよぉ知っておる。一部始終を見ておったからの」

体中に緊張が走る。
私は、彼の微笑みに騙されたのか。
彼が例え、魔女狩りの何かを知っていたとしても、それは犠牲者との切なくも優しい記憶なのだろうと思っていたのに。
かの惨劇の一部始終を、彼は見ていたと言う。
神界の王が、惨劇の起こる瞬間を見ていたのに、多くの魔女が犠牲になった。
それはつまり…

「…それでは、犯人は神々の内のどなたか…いいえ、一部始終を見ていたと言うのなら…もしや、犯人は…貴方?」
「それを知るには条件がある」
「条件?」
「まず、魔女狩りの真相を口外しない事。そして、わしの頼みを聞きいれる事じゃ。」
「頼みとは?」
「お前さんにしか出来ん事じゃよ」

自分が疑われているこの状況で交換条件とは…彼は相当、図太い性格らしい。
でも、もし、彼が魔女狩りの犯人ならば。
かの惨劇が起こった理由はなんなのだろう。
確かに彼の性格には騙されたとは思ったが、彼が一時の快楽や激昂で安易な行動をとるとは、どうしても思えないのだ。
知りたい。
彼がその時、神界の王として何を思ったのか…知りたい。

「…その条件を飲めば、真実を、貴方が知っている全てを教えて頂けるのですね?」
「お前さんは胆が据わっておるな。何を頼まれるのか分からないのに前向きな態度を示すのか」

同じ様な台詞を、冥界でヘルにも言われた様な気がする。
彼の人柄を信用する論理的な理由などない。
ただ、強いて言えば…

「…魔女は、”花”に自分を重ねて大事にします。魔法を使うために必要な魔法紋や、それこそ名前にも花の名前を使う程」

オーディンは一瞬呆気にとられた顔をした。
それもそうだろう。
突如、脈絡のない話が始まったのだから。
しかし、そこは、慈悲深いオーディン様である。
やがて興味深そうに続きを促してきた。

「私も、カサブランカリリーを大事に思う魔女の一人です。花に対しては他の魔女同様、特別な思い入れがあります。それは、女帝も田舎娘も変わらない」

そこで一旦言葉を切り、私はウルドを見た。
ふいに向けられた視線にも臆することなく、彼女は私を見つめ返してくる。

「ウルドに貴方の事を訊いた時、彼女は貴方を”春みたいな人”と形容しました」
「ほう…春、とな」
「春は生命が息吹く季節。花にとって、春とは三ヶ月限りの楽園なのです。貴方は、その楽園に例えられた人。花にとっての楽園であるならば、魔女である私も貴方を無下にするわけにはいきません」
「ほう、独特の感性じゃのぉ…魔女特有のものなのじゃろうな」
「そうですね…ま、春以外に咲く花もありますし、なんならカサブランカは基本的に夏に咲く花ですけど、一般的な花ということで」
「ほっほ、面白いおなごじゃ。ますます気に入った。では、頼みを聞いてくれるな?」
「勿論」
「拒否権はもうないぞ」
「構いません」
「…良かろう。では、まずは此方の願いから叶えて貰おうかの」

朗らかな老人は嬉しそうに目を細め、続ける。

「わしはご覧の通り、年老いてしもうた。長年この神界を守って来たが、そろそろ世代交代の時での。しかし、わしの力は一人で背負うにはあまりに荷が重過ぎると常々思うておった。そこでわしの持つ最も重要な四つの力を四人の女神に与え、東西南北の四方位に配置する事にしたのじゃ。その一人がこのウルドでの。彼女には過去を見る力を授けておる。聞いただけなら何の事はないかもしれんが、過去が見えるというのは実に辛い事じゃよ。事の次第によってはとても重要な役割を担うがの。…そこでお前さんへの願いじゃ。リリー・ブランカよ。お前さんには西領の主になって貰いたい」
「あるじ…」
「わしの後継者の一人となって欲しいのじゃよ」
「後継者って…まさか、神界を治めろと仰るのですか?」
「そうじゃ」

頼みは快諾した。
確かにしたけれど!
まさかこんなとんでもない依頼だと誰が予想出来るだろう。
異界の人物に神界を治めろだなんて…魔界であれば絶対に有り得ない。

「先程も申しましたが、私は魔界の長、女帝ですよ?」
「構わん。女帝として魔界を治める傍ら、こちらも治めてくれれば良い」
「無茶です!」
「例え無茶だとしても、お前さんしかおらんのじゃ」
「そんな事…他にもいっぱい居る筈です」
「いや、おらんのじゃ。北の領主スクルドが詠んだ未来の通り、お前さんが今日此処に来たのじゃからのぉ」
「未来?」
「確か…」
「主の寵愛を受けし花が朝露に濡れ、月が三度闇に落つる時、異界より旅人現れて日没の女神となるであろう」

歌を詠んだのはウルドだ。
落ち着いた彼女の声で詠まれる歌は、大変耳に心地良かった。

「そうじゃ。ありがとうウルド」
「…それなら先程も彼女から聞きましたが…その旅人が私だと?」
「如何にも。日没の女神…つまり西領を守る主じゃ。何とも偶然にしては出来過ぎておると思わんかね?」
「それはそうかもしれませんが…」
「全ては必然なのじゃ。スクルドの詠んだ通りにお前さんは此処へ来た。それ以上にどんな理由が必要なんじゃ?」
「私は…神ではありません」
「それも問題はない。神の力は全てが後天的に付けられたものじゃ。素質さえあれば誰にだって出来る」
「そんな…」
「他に断る理由が?」

思いつく理由など全て吐き出した。
あまりにも突飛な事態が起こっていて脳の処理が追いつかない。
日没の女神?後継者?
それ以前に、私は魔界という一界の主であって、それですら、まだ自分の肩書きとして馴染んでいないというのに。
女帝の片手間で神界を治めるなんて無茶苦茶だ。

「混乱するのも無理はない。しかし、何も難しい事は考えずとも良い。ただお前さんは、魔女狩りの真相を知るために、この老いぼれのままごとに付き合い、子の振りをする。それだけじゃ」
「ですが…」
「先程、拒否権はないと言った筈じゃ。お前さんはそれに構わんと答えたぞ?」

侮っていた。
彼は単に図太いだけの人じゃない。
計算高くて狡賢い。
ある意味、魔女の鑑のような人だった。

「狡い人!」
「何とでも言うが良い。お前さんがわしの計画に付き合うというのなら、真の我が子と思って接するつもりじゃ。女帝としても悪い話では無いと思うがのぉ?」

間延びした彼の言葉が空気に溶ける。
確かに。
我が子として彼の懐に入れるのなら、魔界の平和を望む女帝として、これ程好都合な事はない。
何だか話のスケールが大き過ぎて現実味が無いけれど、これが私の運命だというのなら。
息を大きく吸って、吐いて。

「参りました…オトウサマ」



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