#16 対局
リリー様を含めた歴代女帝は皆、「魔闘」と呼ばれる、女帝を決める為の戦いに勝利した強い魔女だ。
その「魔闘」に使用される大舞台。
正式名称は「スリュムヘイム」というのだが、此の名で呼んでいる者はもう少ない。
実際に此の場所が呼ばれている名前は、視覚から得られる情報に由来する。
今、決闘をする二人が立っている足下。
つまり、戦闘の舞台となる場所。
そして、そこへ選手を迎え入れる両開きの扉は、対峙する様に東側が黒、西側が白に塗られていて、その単色な景色から「モノクロスタジアム」、「モノクロドーム」等と呼ばれているのだ。
更には隠語として「チェス盤」などと呼ぶ者もいるが、この辺りは別段詳しく説明する必要もないだろう。
この場所が存在する理由は、勿論女帝を決定する為であって、普段は静かでだだっ広い寂しげな場所でしかない。
しかし、魔闘が開かれていなくとも、このチェス盤が殺気で満ち満ちる時がある。
それが、女帝に勝負を挑んだ者が現れた時。
正に、今この瞬間だ。
「そう言えば、今朝は貴女の名前を聞いていませんでしたね」
「ジョリー・ジョーカーよ。貴女を殺す魔女の名前を確と覚えて死ぬ事ね」
実は、リリー様がどのような魔法を使うのか私は知らない。
自分がこれから仕える人物が決まる重要な戦いだったというのに、リリー様が此処で女帝になった瞬間を見ていないのだ。
あの時はただ、魔女という存在が憎らしくて…
いつからか魔界の片隅に追いやられていた魔狼族。
魔女との関わりが薄れて行く中、私達姉妹だけは女帝に仕えるという習わしを遂行する為、特別に教育された。
凶悪な魔女の元でビクビク怯えながら楽しくもない人生を送るくらいなら、マリエッタと共に心中した方がマシだと思った事すらあったのだけど…それはもう昔の話。
「どうか、ご無事で」
今は貴女だけに忠誠を誓う。
「ほう…成る程」
突如、背後から聴こえた低音。
訝しく思って振り返ってみると、そこには汚い白衣を身に纏った男が居た。
「リリーの従者。つまり、魔狼族という訳か」
「失礼ですが、貴方は?」
男はニヤリと気味の悪い笑みを浮かべて、丸眼鏡の奥に力無く潜む眼差しを舞台に向ける。
「リリーを此処に呼んだ張本人さ」
「それは…どういう…」
「女帝になる様にアイツを説得したのは俺、という事だ」
「…どうして此処へ?それに、この決闘は今朝方、急遽決まったものですよ?どうして今日決闘があるとご存知なのですか?」
リリー様は、今から大事な局面を迎えようとしている。
迂闊に部外者に邪魔をされては、主の勝率に影響しやしないかと不安で。
語気を強めて問いかけると、男は私を観察する様に見下ろした。
「やはり…どうやら、リリーはもう狼を手懐けたようだな。犬嫌いなのに。流石はボスの子だ」
見て呉れが不潔だとか、不気味だとか。
男の嫌な所をあげつらうならば、出会って早々にして既に幾らでもある。
だが、”手懐けた”という表現は殊更気に食わない。
確かに結果的にはそうなるかもしれないが、私は私の判断で彼女に従うと決めた。
ここまで私達が辿った経緯なんて何ひとつ知らないくせに、分かった様な口を利いて欲しくないものだ。
「リリー様とどういうご関係ですか?リリー様の邪魔をするようなら、ご退場願いたいのですが」
「質問詰めだな。君は。まあ、そう警戒してくれるな。俺はアイツの親代わりみたいなものだ。横に研究所があるだろう?そこで所長を務めている。名はマルバ、姓はスカーレット。今日の決闘を何故知っていたかは…ノーコメントだな。此処に来たのは研究の為。リリーの邪魔などしても俺にメリットは無いよ。…これで君の質問に全て答えたと思うが…他に何かあるか?」
「…分かりました。でも、決闘が終わるまでは大人しくしていてください」
男は、ニタリと笑って静かに着席した。
*****
「五分間戦闘不能になった時点で勝負あり、後は自由って事で良いかしら?」
「勿論」
「それじゃあ…」
「始めましょうか」
戦いの火蓋は切って落とされた。
いち早く動いたのは、魔女ジョリー・ジョーカー。
リリー様は慎重に相手の出方を伺っている。
ジョリーの手元に小さな魔法紋が現れたが、此処からでは小さすぎて、何の花が描かれているのか確認出来ない。
しかし、魔法紋から飛び出した細い糸のようなものを見たマルバ所長による「パンジーか」という呟きから察するに、恐らくジョリー・ジョーカーはパンジーの花を家紋に掲げる血筋に生まれた者なのだろう。
細い糸は粘着性を持ち、壁や柱の其処彼処に張り付いていく。
これはまるで…
「蜘蛛の巣みたい」
マリエッタが呟いた通り、目の前で作り上げられた造形物は巨大な蜘蛛の巣そのものだ。
リリー様は、その中心で蜘蛛の策略に掛かってしまった獲物。
一歩動こうものならば巣に捉えられてしまう。
開始早々、袋の鼠だ。
「ひとつ忠告してあげる」
既に勝利を確信しているのか、悪戯っぽくジョリーが言う。
「私の糸は蜘蛛の糸より粘着質よ。一度触れたら離れない。私が魔法を解かない限りね。さあ、降参する?それとも死ぬ?」
ジョリー・ジョーカーを見つめて「私は降参しない」と静かに告げるリリー様は、こんな危機的状況にも関わらず眉ひとつ動かさない。
その一言にジョリーはニヤリと笑って「なら、死ななきゃね」と呟くと、リリー様に向けて糸を放った。
防壁で身を守るリリー様。
だが、其れを見たジョリーは叫ぶ。
「無駄よ!」
その言葉の通り、防壁をすり抜けた糸はリリー様に襲いかかる。
あっという間に、糸に巻かれて繭の中に捉えられてしまった。
「ほう。珍しい。あの魔女は防壁破りが使えるのか」
マルバ・スカーレットによるご丁寧な解説も、今は苛々の材料にしかならない。
「もう貴女は出られない。その中で窒息して死ぬのよ」
パンジーの魔法紋が消える。
壁に張り付いていた蜘蛛の巣は消え去ったが、舞台の真ん中に転がる不気味な繭はそのままだ。
あの中にはまだ、リリー様が居る筈。
「リリー様!」
叫んだのはマリエッタと同時だった。
切羽詰まった私達の声は、繭の中の主に届いているだろうか。
貴女を呼ぶ声で、貴女への思いで、その繭を破れたら。
…否、叶わぬ願いではない。
私達は魔狼。
普段は魔法を使えないけれど、自分の命を投げ打つ覚悟があれば願いは叶い得る。
今がその時なのか。
忠誠を誓うと言いつつも、自分の命を捧げる覚悟を決めかねていると、またもや背後から男の声。
「魔法を使うつもりなら止めておいた方がいい」
この男には、人が頭で考えている事を覗く力でも持っているのかと思ったが、仮にそうだとすれば、ある筈の魔法紋が見当たらない。
つまり、魔法を使っていないのだから、彼の言葉は観察と知識に基いて導かれたものなのだろう。
「今はお前達が魔法を使う時じゃない。無駄死ににしかならないぞ」
「でも、このままではリリー様が!」
男は笑った。
今までのようなニタリと粘着質な音がする様なものではなく、至極楽しそうな笑い方。
「いや、リリーはこんな事で死ぬようなヤツじゃない。アイツは世界中の誰よりも捻くれた、最低最悪の魔女だぞ?」
リリー様を馬鹿にしている様にしか聴こえない言葉だが、何故かその表情からは彼女に対する信頼と確信を感じる。
「五分間待つのも面倒ね…やっぱりさっさと殺しちゃおうかしら」
懐から短剣を取り出したジョリーは、迷う素振りも見せず、大きく振りかぶってその切っ先を繭の中心に突き刺した。
白い繭を染める赤。
それは紛れもなくリリー様が敗北した事を知らせている…かに思われた。
「リリー、そろそろ反撃しないと五分経つぞ」
呆れた様な彼の言葉。
それから間もなく聴こえた悲鳴は、何故かジョリー・ジョーカーによるものだった。
まるで、リリー様がこの男の言葉を聴いていたみたい。
リリー様は…本当に死んでいない?
「何で…何で…」
恐怖に慄くジョリーとは対象的に、男は肩を振るわせて静かに笑う。
一体何が…
「何で…アンタ…」
良く目を凝らしてみると、ジョリーの目と鼻の先に微かな光が見える。
あまりに小さいそれは、蛍が浮遊している様にも見えた。
「ひとつ忠告してあげる」
聴こえて来たのは、紛れもなくリリー様の声。
「私の魔法は、魔法を掛ける時、対象者との距離が近ければ近い程強いの」
「どうして…繭の中に居る筈…殺した筈…!」
「貴女が殺したのは幻。私が用意した私の身代わりよ」
「何?!」
周りの景色が揺らいだ。
ジョリーの視線の先にある何かが、ぼんやりと見えてくる。
それはまるで、夢から覚めてゆく様に次第に色濃くなって。
終には、ジョリーの目の奥を射抜く様に見つめる主の姿が、はっきりと確認出来るまでになった。
一瞬、二人が口付けを交わしているのではないか、と疑ってしまった程近い二人の距離は、リリー様を目に映せる様になっても離れない。
蛍が浮遊していた様に見えていたのは、文字通りリリー様の”目の前”に展開された小さな魔法紋だった。
「さあ、降参する?それとも…」
ジョリーは短く悲鳴を上げて崩れ落ちた。
力なく床に転がったと同時に意識を失った彼女は、瞼の裏で何を見ているのだろう。
その様子を、憐れみの浮かぶ瞳で見下ろしたリリー様は、一度は命を狙ってきた相手だというのに、自身の膝を枕代わりにして彼女の頭を優しく労る。
五分カウントされる間、ジョリー・ジョーカーは意識の下で悶え続けた。
何者かに襲われる夢でも見ているのかもしれない。
脂汗を滴らせ浅い呼吸を繰り返し、逃れる様に藻掻くその姿は、蜘蛛の巣に掛かった獲物の様にも見えた。
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