#15 責務

ぬるま湯に溶けゆくように
荒野を彷徨うように
誰にも邪魔されぬ場所
常識の及ばぬ場所
此処は何処?
何処へ向かうの?
暗闇の中で溺れる私は…誰?

「リリー様」

目が眩む。
瞳が光を拒絶して瞼が上がらない。
朝、か…

「リリー様、起きてください」

私が横たわるベッドの傍ら。
膝を付いて顔を覗き込んでいたのは、魔狼姉妹の片割れ。
姉のフレアだ。

「フレア」
「はい。リリー様。おはようございます」
「おはよ」

彼女の微笑みと共に目覚める朝は、大変に目覚めがいい。
お気に入りの目覚まし時計だ。
もし思った通りに告げたのなら、彼女は「私は時計ではありません」とでも言って怒るかもしれないけれど。

「リリー様、お目覚めの所申し訳ないのですが、お客様がいらしております」
「お客さん?」

覚醒しきれていない頭でフレアの言葉を鸚鵡返しすると、彼女は苦笑した。

「失礼しました。”お客様”では無いかもしれませんね」
「違うの?」
「”道場破り”の方が近いかもしれません」
「ああ…そういう事」

マルバが言っていた。
女帝がその座を明け渡す条件は、自らがそう決断した時か、もしくはその生命が途絶えた時。
そして歴代女帝のほとんどは、その振る舞いに不満を抱いた国民によって殺害されたのだ、と。
私が即位してまだ間もないというのに。
もう不満を持つ者がいるのか。

「見た所短気な方のようですから、少しお急ぎになった方が宜しいかと」
「直ぐ行くわ」
「広間にお通ししております」
「分かった」

律儀に一礼して私の部屋を出て行くフレアの背を見送り、ドアが完全に閉まるのを確認する。
急に静かになった空間。
無音に耳が慣れなくて、内側から脳を揺さぶられる様な痛みを感じる。
溜息を吐き肩の力を抜くと、痛みはマシになったが少し身体が重くなった気がした。

そもそも。
この城が私の物になったあの日まで、私の世界は全てあの森の中にあった。
そこには、私と母さん…それと稀にやってくるマルバだけ。

数回、どうしても都会に行かなければいけない用事があって母親に連れて来られたが、正直私にはそれが現実だとは思えなかった。
母さんに手を引かれていた、あの頃の無力な私は、自分と母親以外は皆、私とは違う…何か別の生き物だと思っていたくらい。
勿論、大きくなってからは外の世界に憧れた事もあった。
外を知らない私は不幸なのかもしれない、と思った事もあった。

でも、狭い世界での生活は果たして明らかに不幸な事だったのだろうか。

マルバに歴代女帝の末路を聞いてから、ずっと心の何処かで思っていた。
私は誰かに嫌われた事が無い。
否、嫌われようがなかったのだ。

私が居たのは、全人口たった三人の世界。
ごく稀にしか姿を見せないマルバは兎も角として、母さんは家族だ。
どんなに喧嘩をしても、そこには家族という固い絆があった。
だから、真の意味で誰かに嫌われる事など有り得なかったのだ。
それが今はどうだろう。
誰かの上に立つ立場になってしまったが故に、顔も知らぬ相手からも憎まれ得る様になってしまった。
世界が広がると言う事は、それだけ誰かから負の感情をぶつけられるという事じゃないのか。

「慣れないわね…」

ホント、私には酷な仕事。

*****

正直に言おう。
話をまともに聞いていたのは最初の十分だけだ。
言っている事は同じでも、少しずつ表現を変えながら堂々巡りになって既に小一時間。
私に罵声を浴びせる魔女は、息継ぎをどこでしているのか不思議に思う程延々と喋り続けている。
マルバとそう変わらない年齢だと見受けるが、女の年齢なんて見た目から正確に判断出来るもんじゃ無いから、実際にはもっと老けているのかもしれない。
眉間に深く刻まれた皺が、彼女の気性の荒さを物語っていた。

「だからね!ちょっと聞いてる?アンタは田舎者で分からないでしょうけど、魔女は今こそ外へ出てこの力を行使しなければいけないの。魔女狩り知ってるでしょう?ああ、駄目ね。今時の若い子は勉強しないから魔女狩りの事何も知らないのね?良い?昔ね。私達は神界の奴らに迫害されてたの。んで、トチ狂ったいつぞやの女帝が神界と魔界を繋ぐスポットを全部排除して私達に魔界の外へ出ない様にって言ったのよ。それから私達は反撃の機会すら与えられずにムシャクシャしてるってわけ。なぁに?その顔は。アンタホントにやる気あんの?アンタ女帝でしょ?ここのトップでしょ?嫌だわ。この世界を牛耳ってるのが、こーんな平和ボケした田舎者の小娘なんて。他の世界にバレたら笑い者よ。もう自分から女帝辞めるって言ったら?」

漸く途切れた彼女の言葉。
何故だか、話を聞いてる此方まで久々に息をしたような心地だ。
私の背後で「いやいや…相手が女帝だって言うのにその言葉遣いってどうよオバサン」と小さく呟くマリエッタの声が聴こえたが、幸いにも客人には届かなかったらしい。
余計な争い事は御免被る。

「残念ですが、私はまだ女帝を辞める気はありませんよ」
「そうかい?私には、アンタがなりたくて女帝になった様には見えないんだけど」
「…鋭いですね。確かに、私はなりたくて女帝になった訳ではありません。しかし、現在の法を変えてまで他の世界と争うつもりもありません」
「まぁ!開き直り?アンタみたいなボケッとした子がここにいると迷惑だって分かんないの?」
「迷惑でもなんでも構いませんが、何と言われようと私がこの座を自分から明け渡す事はありません」
「やりたくもないのに?」
「約束ですから」

そう。マルバと約束をしたのだ。
魔闘に勝って、母親を助けたらさっさと女帝なんか辞めて帰ってやろう。
そんな私の思考回路を読んだマルバから、突きつけられた約束。

「そう易々と女帝の座から降りてくれるな」

今になって思えば、「約束」というより「お願い」に近い一言。
言われた当時は、其れが意味する事をきっと半分も分かっていなかった。
彼の祖母が女帝だった事を知った今ならば、彼にとって女帝という地位が其れそのものの価値以上に大切なものであると分かる。
彼はそこに私が収まる事を自ら望んだ。
元来、腹黒い彼の事。
私を女帝にしようと思ったその真意は、私の想像の範疇を超えるものなのかもしれない。
だけど、少なくとも私を信用して決断した事には違いない筈。
ならば、応えるべきだ。

「私は絶対に、自分の意志で女帝の権利を放棄する事はありません」

例え、マルバの思惑が私の予想とは全く違うものだったとしても。

「そう」

客人の纏う空気が一瞬にして変わった。
後ろに控える二人もそれに気付いたようだ。

「そこまで頑なに拒むなら仕方ないわね。貴女には女帝としての責務を果たして貰います」
「責務…」
「私と正々堂々勝負をしなさい。そこで貴女を殺してあげる」

行き成り押し掛けて来た人物に命を狙われているというのに、あまり実感が沸かない。
それもそうだろう。
今までこんな局面に遭遇した事などないし、普通に生活してたってなかなか味わえるものではないのだから。
現実味が無くて当然だ。
不適に笑う女は、先程の息も吐かせぬお喋りからは想像も付かない様な静けさで、私の回答を待っている。

「良いでしょう」

背後で戸惑う二人の声が聴こえたが、これが女帝の責務だというのなら仕方あるまい。

「但し。少し待って頂けるかしら?私、朝ご飯を食べ損ねているの」

客人は嘲る様に鼻で笑うと、最後の朝食になるんだからゆっくり食べなさいな、と至極挑発的な態度を見せた。

「そうさせて頂くわ。では、三時間後に”チェス盤”で」
「逃げるんじゃないわよ。分かってるでしょうけど、これは女帝としてやらなければいけない事なんだから」
「勿論」

ローブを翻して去って行く客人。
その姿が見えなくなる頃合いを見計らって、マリエッタが尋ねてくる。

「どうして…決闘をお受けになったのですか?」
「勿論、女帝の責務だからよ」
「それは…そうですけど…」
「心配してくれてるの?」

悪戯っぽく問うと、マリエッタは頬を赤らめて「そりゃあ…リリー様は私の主ですから」とのたまう。

「主だなんて思わなくても良いのに」
「私が思いたいから思ってるだけなので放っといてください!」

ムキになるマリエッタが可笑しくてフレアと顔を見合わせて笑うと、何だか心が軽くなった気がした。

「リリー様、私はリリー様が簡単に死ぬ様な方ではないと思っています」
「ありがとう。フレア」
「必ず勝ってくださいね」

安心させるようにフレアに微笑みかければ、フレアも同じ様に返してくれる。

「じゃあ、部屋で支度してるから後でサンドウィッチでも差し入れしてくれる?マリエッタ」

勿論サンドウィッチを作るのはフレアでも良かったのだが、態とマリエッタを名指しして軽食を頼むと、彼女は弾かれた様に台所へと走って行く。
後ほど部屋に届いた軽食には、ハートマークが描かれた小さな旗が刺さっていた。



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