#14 契約の泉

時計を見るとそろそろ夕刻。
今頃、フレアが夕飯を作ってくれている筈だ。
「そろそろ帰ろうかな」とヘルに告げると、彼は時計をチラリと確認して「それなら最後にやって欲しい事があるんだけど」と満面の笑みを浮かべた。

応接間から地下へ。
ヘルの後を付いて行く。
このまま進むと来た道を戻る事になり、最初に見た噴水のある部屋に辿り着く筈なのだが、彼はそこで何をして欲しいというのだろう。

「ヘル?私にやって欲しい事って?」

疑問が膨れ上がって堪らず彼に問うた、その時。
彼が手をかけていたのは推測通りの場所へ続く扉。
振り向いた彼は、訝しんでいる私の表情を確認すると、何が楽しいのか吹き出す様に「そんな顔しなくて大丈夫だよ」と笑った。

「さっきも言った通り、冥界には外がない。強いて言えば、魔界を含めた他の世界すべてが冥界にとっての外とも言える。君がここに来た時通ってきたあの扉は、全ての世界と繋がっているんだ。世界を統べる神界の長でも、勿論、魔界の長であるリリーにも行けない世界ってのはあるんだけど、僕は例外的に全ての世界と繋がることを許されている。あの扉は言わば冥界の玄関みたいなものなんだよ。そして、この噴水。君はただの飾りと思ってたかもしれないけど実はそうじゃない。これは契約の泉。全世界に繋がるあの扉を介して、自由に冥界に来られる契約を結ぶための装置なんだ」
「つまり…契約を結べば少なくとも冥界には自由に行き来出来るって事?」
「そう!合鍵を貰った状態だと思えば良いかもね。リリーのお兄たんになったからには、いつでもリリーの力になれるようにしておきたいんだ」
「だから妹じゃないってば」
「あー。まだそういう事言う?もういいじゃん。お兄たんって呼んでみな?」
「…………兄上」
「やだもうこの子ったら。堅苦しい言い方して。もっと可愛くさぁ…キュンキュンするような感じでワンモアタイム!プリーズセイッ!」

ヘルは満面の笑みを浮かべて、期待に胸を膨らませている。
何だかとっても鬱陶しいな。

「ヘル…ちょっとしゃがんで?」
「何?内緒話?誰も見てないのに。リリーの恥ずかしがり屋さん!」

多いに苛立ちを感じる言動だが、私の目線に合わせるように腰を落としてくれた彼へささやかなプレゼント。

目の前の端正な顔に手を伸ばして頬をサラリと撫でる。
その行為は彼の意表を突いたようだ。
綺麗な目はまん丸に見開かれ、白い筈の肌は耳まで真っ赤。
その反応が何だか可愛くて。
我慢できずニヤリと意地悪く笑う。
だけど、今彼にさせたいのはこんな表情じゃない。
ゆっくりと指先に力を込める。
完全に頬を抓ってやると、彼の腑抜けた表情は一変。
私に畏れを抱いたのか小刻みに震え始めた。

「オ、ニ、イ、タ、ン」

全く感情を込めずに言葉だけ羅列したようなもの。
お望み通りの言葉を聞けたというのに、ヘルはまだ生まれたての仔鹿の様に震えている。

「…何で頬っぺた抓りながら言うの?」
「キュンキュンしたいって言うから…頬っぺ抓ったらキュンキュンするかなって思ったの」
「女王様…僕、マゾヒズムの蕾が開花しそうで怖いです」
「私を巻き込まないでね。M王子」

*****

「で?どうすれば良いの?」

気を取り直す様に質問すると、ヘルは「ああ、そうだったね」と微笑み、私の両肩をしっかりと掴んだ。
彼の赤い瞳に、冷めた視線を送る私が映る。

「リリーに痛い思いはさせたくないんだけど…ちょっと血をくれないか」
「え…やだ、バイオレンス」
「そんな引かないでよ。ちょっとだけだから」
「えー」

自分の身体から血が噴出しているのを想像して思わず顔を顰めると、ヘルは私のご機嫌を伺う様に「麻酔かけるから」と、猫なで声。

「麻酔ねえ…しょうがないか」

彼とのコネクションは、私という個人にとっても、女帝としての私にとっても。
きっとカナリ大きな恩恵を与えてくれる筈。
やたら妹扱いしてくるのは少し鬱陶しいが、今は取り敢えず目を瞑っていようか。

溜息をひとつ吐いて頷くと、ヘルの表情はパッと明るくなった。

彼が描いた掌サイズの小さな魔法紋。
あの模様は向日葵だ。

「ヘルは向日葵の家系なのね?」
「ああ…冥王らしくないだろう?」
「でも、ピッタリじゃないの」

冥王にはらしくなくても、貴方そのものにとっては。
これ程似合う花はないわ。

「手を出して。利き手じゃない方が良いかも」

私の左手小指を彼が軽く握ると、次第に小指の感覚が失われていくのが分かる。
魔法を掛け終わった頃には、微かな振動が隣の薬指に伝わる程度。
彼が私の小指を撫でながら、どう?と上目遣いに尋ねた。

「何も感じない…自分の指じゃないみたい」
「じゃあ、成功だね」

そう言うと、彼はおもむろに噴水の中から小刀を抜き出して、私の感覚のない小指の腹に刃を当てた。
お尻の辺りがムズムズする。

「…向こう向いてた方が良いんじゃない?」
「向こう向いてる間に、小指無くなってたら困るから」

ヘルは苦笑すると、でも逃げないんだね、と本当に嬉しそうに笑った。
そう言えば、今日初めて会った人に小指を差し出して…余りに無防備過ぎやしないか?
誰も信用するな、とマルバに言われたのを思い出した。
もしこの人に何か下心があったとしたら、次の瞬間には本当に小指が無くなってるかもしれないのに。

気が付けば、既に刃は小指の上を軽く滑っていた。

「痛い?」
「全然」

じわりと滲む赤黒い血。
小さな傷口から血を押し出す様に圧力を加えると、丁度一滴、血の雫がぽたりと噴水の水の中に落ちて溶けた。
すると、噴水の水底が一瞬だけ瞬く。

「今、リリーの血を噴水が覚えた。これで君はここに繋がる扉を、いつでも何処でも出すことが出来る筈だ。君が魔闘の最後に見せたあの異世界の扉の様にね。さ。指を消毒してあげよう。麻酔は三日後まで効く様にしてあげたから。その頃には痛みも引いてると思うよ」

何処から取り出したのか、消毒液をシュッシュッと二回小指の切り口に吹きかけると、垂れた分をガーゼで優しく拭き取って。
最後に、絆創膏をキツめに巻いて出来上がり。
満足げに頷く彼。
その手際の良さに感心しつつも、小指に巻かれた絆創膏が気になって仕様がない。
桃色のそれには、よく見ると熊のイラストが描かれていた。

「こういうのって、ヘルの趣味?」
「くまさん?」
「女の子みたいな趣味だよね」
「妹の為を思って可愛い絆創膏を用意するのは悪い事?」
「今日のこの契約の為に態々置いといてくれたのね?」
「…本当はいつ彼女が出来ても良い様に置いてました!」
「あ!取らぬ狸の皮算用ってこういう事!」

合点がいった様に、ポンと掌に拳を打ち付ける仕草をすると、ヘルは目を潤ませ項垂れてしまった。



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