#10 冷めた紅茶とご主人様
「ひとつお伺いしても宜しいでしょうか」
「なーに?」
リリー様は紅茶の入った陶器のティーポットを満足げに揺らしながら答えた。
「お茶を飲むんだから座りなさいな」とやんわり命令され渋々二人揃ってソファに腰を降ろした所、どうやら気を良くしたらしい。
魔女なのにわけがわからない主人だ。
いや、魔女だからか。
それにしても…深く考えず話し掛けてしまったが、もし彼女が魔狼族での噂に違わぬとんでもない暴君なのだとしたら…私が今から彼女に尋ねようとしている事が火種になって私達の命を危険に晒しても全く不思議ではない。
今までは何とか彼女を怒らせずに済んでいるが、ここから先の受け答えは慎重に為さねば。
「…リリー様が女帝として、どの様な魔界の未来を望んでおられるのか…お聞かせ願えますか?」
女帝の権限というのは残酷なほどに強い。何てったって、「女帝こそが魔界の法律だ」と言うくらいなのだから。そんな、魔界を手の内で転がせてしまう位置にまで上り詰めた若い娘が、その権利をどのように使って何を望むのか。
それが分かれば、少しでも余計ないざこざが減るだろうと予測しての発言である。
ポットを揺らす手が止まった。
だが特に何かを言うこともなく、彼女はティーカップに紅茶を注ぎ始める。
部屋の中に充満する紅茶の良い匂い。
三つのカップ全てに注ぎ終えると、リリー様は自分の紅茶に角砂糖を二つとミルクを少し入れて、ひとくち。
意味深な沈黙は私の背筋を凍らせた。
いきなり地雷を踏んでしまったのか。
そうだとしたら、マリエッタだけは何としてでも守らなければ…
「残念だけど」
しかし恐怖に怯える私の心情とは裏腹に、リリー様から発せられた回答は私を拍子抜けさせ、更に頭を悩ませるものだった。
「私、何も考えてないの」
「考えてない…と言いますと、今から考えるということですか?」
「と言うより、”特に何かをしようと思っていない”って方が正しいかしらね」
「はぁ…」
「何か急いで考えなきゃいけない事でもあるの?」
「いえ…そういう事はありませんが…宜しいのですか?女帝の権限で自分が有利になる様な事を為さらなくても…」
「そういう事なら既に一回経験済みだから…あまり職権乱用が過ぎるのも…ね」
視界の端でマリエッタのスカートが小さく揺れたのは、きっと魔女が平然と言い放った言葉のせいだ。
女帝として君臨してまだ日が浅いというのに、この魔女は既に私利私欲の為にその権利を行使していた。
やはり、この優しそうな物腰もこの美味しそうな紅茶も油断させるための罠だったのか。
魔女の頂点にいる人物なのだから、それはそれは恐ろしい事をしたに違いない。
誰かを殺めたか…もしくは拷問にでもかけたか…
ごくりと喉がなる。
不意にのどの渇きが気になりだしたが、目の前の紅茶に手を出すわけにはいかない。
「何を…なさったのですか?」
「母さんを助けたの」
極限の緊張状態のせいか、どこか遠い世界でこの時間の羅列を傍観している気分だ。
言葉を理解するのに一々時間がかかる。
”かあさん”…つまり…それは…
「リリー様の…お母様ですか?」
「そう。私を育ててくれた母さんね。ちょっとした事で罪に問われて危うく死刑になるところだったのよ。先代の女帝は母さんの知り合いの親族だったみたいだから、彼女が生きていればこんな大事にはならなかったんだろうけど…丁度先代の女帝が亡くなって私が女帝になるまでの間に事件が起こっちゃって。議会が一時的に魔界を牛耳ってた頃の事だったんだけど…今の議員さんはちょっと判断が極端みたいね」
「お母様はどのような罪を?」
「母さんの知り合いに若い頃ちょっとヤンチャしてた人が居て、その人が脱獄してきたのを匿ったのよ」
「ヤンチャ…ですか」
「詳しくは知らないの。匿ってた事も知らなかったし」
「では、そのお母様の死刑を取り消した…だけですか?」
その質問に、彼女はもうひとくち紅茶を飲んで「そうよ」と短く答えた。
「それじゃあ、リリー様が魔闘に参加された理由は…」
「勿論、母さんを助けるためよ」
本当なのだろうか…私達を油断させる為に嘘を吐いているとも考えられる。
魔女は狡賢い生き物だと聞くくらいなのだからそれくらいの気を回せても決して不思議ではないが…
私が考え込んでいる様子を見て彼女が何を思ったのかは想像しがたいが、私の顔を怪訝そうに眺めて、やがてニコリと微笑んだ。
「私、生まれて直ぐ本当の母親を亡くしているの。母さん…育ての母親曰く、本当の母親は母さんの妹だったらしいんだけど、私を産んで女手一つで育てようとしていた矢先に病で亡くなったらしくて…だから、育ててくれた母さんは母親であると同時に、お腹を痛めて生んだ訳でもない私を娘として育てて救ってくれた恩人。魔闘に参加してその恩に報いる事が出来るのなら、貴女達だってそうするでしょう?」
*****
「じゃぁ、次は私からの質問ね。貴女達はどうしてそんなに辛そうなの?」
狼姉妹と出会ってからずっと訊きたかった事が漸く訊けて、胸につっかえていた物が少しだけ消化出来た気がする。
姉妹は困った様に目を見合わせて、やがて頷きあった。
何も言わずとも心を通わせるその姿が、兄弟姉妹のいない私には眩しく映る。
「…狼のことを、リリー様はどのようにお考えですか?」
「狼?…どのようにって言われてもねぇ…」
犬が怖いのだ。
”狼”という別の名前が付いていても姿形が似ているのだから狼だって怖いに決まっている。
まさに今さっきそれを身を持って再確認した所だ。
しかし、ここで”怖い”と答えるのも何か違う気がする。
きっと、彼女達が求めている答えはそういう類のものではないだろう。
もっと根本的な…そういえば…
「そういえば…母さんは”不幸を知らせる動物”だって言ってたけど…」
その答えを聞いた姉妹は、安心したように小さく溜息を吐いた。
どうやら希望通りの回答だったようだ。
「それなんです。リリー様のお母様はどうやら分かっていらっしゃるようですね」
「どういう事?」
「狼は元々”不幸を知らせる動物”として魔女と二人三脚でこの世界を守ってきたのです。しかし、いつからか私達は”不幸を運んでくる動物”として認識され始めました。少しの言葉の違いに思えるかもしれませんが、これはとても大きく違う意味を持ちます。我々と魔女が共に上手くやっていた歴史を知らぬ者が魔狼族の事を”不幸を運んでくる者”と誤認した結果、私達を毛嫌いする魔女や虐待する魔女が増えていく。それだけじゃありません。その一方で、私達の存在を悪事の口実にする魔女や悪の象徴として利用する魔女も…」
「我々のご先祖様の中には、魔女の行いに黙っていられなくなって、説得しようとして殺されてしまった方もいます」
「最初のうちは何とかしようと魔狼族も躍起になっていましたが、最近ではもう…」
「そう…そんな事があったのね…」
魔狼族の辿った過去を脳裏に思い描いてみるが、きっと私が想像する何倍も壮絶な裏切りや迫害を受けて来たに違いない。
「私はそんな魔女の頂点に立っちゃったんだね」
「でも…リリー様は違うんですよね?」
私の顔色の変化をじっと観察するようなマリエッタの視線。
発せられた彼女の言葉は、まるで期待に縋り付くようだった。
「ありがとう。私の事、信じようとしてくれてるのね」
そう言うと、マリエッタは焦った様に目をキョロキョロさせて頬を赤らめた。
その若い娘らしい反応が嬉しくて。
”この人ともっと仲良くなりたい”と思えた。
「私ずっと森の奥で育ったの。私と母さん以外に誰も居ないような森の奥で。だから友達が出来て凄く嬉しい」
その言葉がどうやら決定打になってくれたらしい。
姉妹の表情から不安や嫌悪といった感情が消えた。
彼女達は顔を見合わせると、また無言で意思を通わせたのか軽く頷きあう。
それは心を開く合図だった。
二人は、私がどういう魔女なのか漸く分かってくれたのだ。
その証拠に。
もうすっかり冷めてしまっていた紅茶は、次の瞬間には一息に飲み干されていたのだから。
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