#09 小さな英雄
「すずめのバカ!ディルに自分が出来ない事押し付けてるだけのくせに!」
「ディルちゃんダメ!」
「ッ…なっ…」
何で…
「ディルもヴェルちゃんも…分かってるんだから。初めて会ったときから!ずっと!」
…どうして。
「…すずめ?」
ディルの発言に混乱して、ただ薄く口を開けたまま呆然とすることしか出来ない。
そんな俺の袂を緩く摘みながら、ヴェルが気遣う様に俺の名を呼んだ。
ヴェルがどんな表情をしているのか知りたくないのに、これ以上俺を拒絶する二人の表情なんか見たくないのに。
警鐘を鳴らす頭と切り離された身体は、ヴェルの表情を確認する為に視界を下げる。
ヴェルは…
ディルと同じ綺麗な宝石みたいな瑠璃色の瞳いっぱいに涙を浮かべて、一心に俺を見上げていた。
拒絶されてなどいない。
ヴェルは心配してくれただけだ。
それなのに、二人にどんな表情を見せたら良いのか分からなくなって、終には袂を掴んでいたヴェルの手を乱暴に振りほどき家を飛び出してしまった。
「すずめぇっ!」
走り去る俺の背を追うように発したヴェルの泣き叫ぶような声が、悲しみに充満した頭の中を巡る。
体力が無いわけじゃないのに、嗚咽交じりの息継ぎでは少し走っただけで呼吸が乱れて苦しい。
でも、どんなに苦しくても足を止めることが出来なかった。
自分に罰を与える様に。
普通じゃない心と身体の組み合わせで生まれてきた我が身を呪う様に。
目的地もなく、月に照らされた薄明かりの中を、ただ走り続ける事しか出来なかった。
*****
「すずめぇっ!」
追いかけなきゃ。
すずめはもう笑ってくれないかもしれないけれど、ずっとこんな哀しい気持ちでいるのはイヤ!
いつもなら、もう暗いからお外に出ちゃいけませんって怒られる時間だけど、今追いかけなきゃもう一生すずめに会えない気がする。
泣いてる場合じゃ無い!
なのに、足を踏み出した所で、ディルちゃんがヴェルちゃんの手を掴んで動けなくなった。
「追いかけちゃダメ!」
「でも!」
「すずめなんて…大っ嫌いっ!」
「ディルちゃん…」
「…すずめのバカ…いくじなしのよわむし…」
いくじなし
よわむし
それはディルちゃんとケンカしたときにゼッタイ言われる言葉。
今のはすずめに言ったのに、何だか自分に言われてるような感じがする。
すずめを助けたい。
すずめの笑った顔をもっと見たい。
もっとすずめといっしょにいたい。
だけど、もし追いかけてすずめに会えたとしたら、なんて言ったら良いんだろう。
そうだ…!
先にこたろーに会いに行こう!
ヴェルちゃんがディルちゃんのことなんでも分かるみたいに、こたろーはすずめのことならいっぱい知ってるはず…
こうやってすずめが悲しいとき、どうすれば良いか知ってるはず!
すずめを助けられるのはこたろーだけだもん!
…あれ?
こたろーだけ…?
何で?
ヴェルちゃんじゃ…ダメ…?
ヴェルちゃんはすずめを助けられないの?
すずめ…たくさん優しくしてくれたのに…お母さんみたいにしてくれたのに…ヴェルちゃんはすずめのこと助けてあげられないの?
こたろーに頼ってばっかりだったら、きっといつまでたってもすずめはヴェルちゃんとディルちゃんともっと仲良くなってくれない。
助けなきゃ!
お姉ちゃんだもん!
「ディルちゃん」
「…?」
「ごめんね」
ディルちゃんの力が弱まった隙に、その手を振りほどいて出来るだけはやく走った。
ディルちゃんにつかまらないように、ディルちゃんの怒った声を聞かないように。
すずめがどこに行ったか分からないけど、きっとすずめとヴェルちゃん達はこれっきりじゃないと思うから。
もっとずっといっしょにいられると思うから。
走る。
また今までみたいな三人になる為に。
トマトだって食べる。
お手伝いもするから。
だから戻って来て!すずめ!
*****
「…知られてた…か」
石を川に投げ入れて出来た波紋をみつめる。
結局、今いる場所が一体何処なのかも分からない所まで走って来てしまった。
目の前に流れる穏やかな川を川下へ辿れば南神殿に戻る事は出来るはずだが—
どうしてこうも上手く行かないんだろう…
どうして俺は男なの?
どうして…
「お困りのようだね。お嬢さん。そんなに泣いてしまっては綺麗な顔が台なしだ」
突如降りかかった声。
涙を拭うこともままならないまま霞む視界にその姿を捉えると、もうすっかり夜は更けているというのに明るいオレンジ色の髪が月光を跳ね返して、まるで其れだけ暗闇に浮いているような光景が其所にあった。
「誰…?」
「名乗るほどの名前じゃないさ…でも、そうだな…悪戯好きの天使…とでも名乗っておこうかな?」
なんてキザったらしい物言いをする男なんだ。
正直、彼に対する第一印象はそれ程良いとは言えないが、そんな事よりも気になる点がひとつ。
「…ほっといてくれ。それに、俺は男だ」
勿論、身体は。
しかし、人と言うものは見た目の情報が最優先される生き物であるが故に、他人の前では幾ら女と間違えられても自分は男であると訂正しなければならない。
もし、女と偽った上で俺の身体が男であると気付かれたなら、きっとダメージを負うのは相手ではなく自分だ。
傷薬は傷が痛むうちに塗るに限る。
瘡蓋が出来てしまってからでは、どんなに塗っても効果は得られないのだから。
「それは失敬。あまりにお美しいので間違えてしまった」
「慣れてる」
「…しかし、君は心にとても大きな傷を背負ってるとお見かけする…これも何かの縁だ。相談に乗ってあげよう」
デリカシーのない男。
人に打ち明けられない悩みだから、今苦しんでるというのに。 一体何処のどいつだ。
荒ぶり掛けた心をなんとか押し留める為に深く息を吐き出すと、こちらの感情を敏感に察知したのか少し拗ねた様な声が届く。
「人の顔を見てため息つくなんてちょっと失礼なんじゃないかい?」
此方から言わせて貰えば、会って間もないというのに無遠慮に追及してくる方がよっぽど失礼だろう。
「…ごめん…気持ちはありがたいけど、相談したところでどうにかなる問題じゃないんだ」
「そういうのは、相談してみてから言うものだと思うけど?」
何処までも図々しい態度にいい加減嫌気が差して来ると、それが表情に出ていたのか、男は軽く鼻で笑って無理に話す必要もないか、と態度を改めた。
「気持ちだけ有り難く受け取っておくよ」
「それじゃ。僕は退場するとしようか…可愛い仔犬くんが待ってるからね」
楽しげな声色を最後に、男はくるりと背を向けて歩き出した。
可愛い仔犬くんとは何なのだろう…
「彼女かい?…お気をつけて」
彼女なら「仔猫ちゃん」と言いそうなものだけど…犬の様に忠誠心で溢れている女の子と付き合っているか、其れとも男同士の禁断の愛に身を置いているかだろう。
「禁断の愛…ね」
其れが出来るのは、お互いにお互いの心を知り尽くしている者達だけだ。
「心を曝け出す度胸も無い奴には、そんな資格もないんだ」
体育座りをして出来た膝の谷間に顔を埋めると、視界が遮断されて聴覚が鋭敏になる。
暫らくして聞こえて来た足音。
近隣に住む誰かか、もしくはさっきのオレンジ頭のキザ男か。
あまり気に留めずにじっとしていると「おい」という少々不機嫌気味の声が掛かる。
間違えるはずも無い。
この声は…
「…虎太郎」
振り向いた先に居たのは、やはり虎太郎だった。
今にも説教を始めそうな目で此方を見ている所からすると、どうやら俺と双子の仲が芳しく無い事を知っている様だ。
「お前…ヴェルと一緒じゃねーのか」
「ヴェルなら家にいるよ」
「…いねーから訊いてんだよ」
ヴェルが…いない?
「目ェ覚めたか?」
「…別に」
「…ディルから聞いた。怒って出てったって」
「理由も?」
「いや。それは聞いてない」
「…そっか」
ディルは喧嘩の理由を虎太郎に言わなかった。
俺が、一番信頼している親友に自分の本当の姿を見せていないことを知った上で黙っていてくれたのだろうか。
まだ五年ほどしか生きていない女の子が、俺のことを案じて黙っていてくれたというのだろうか。
「理由なんかどうでも良い。早く帰れ」
「…帰れない」
「何拗ねてんだよ。相手はガキだぞ?」
「子供に言われたくないことだってあるんだよ!」
突然俺が声を荒げたことに驚いたのか、少し肩をビクリと振るわせた虎太郎は「…わ、悪リィ」と小さく謝る。
「…でも、早く帰れ。俺はヴェルを捜す。こんな暗いんじゃ、今頃半ベソ掻いてる頃だろ」
「…俺が捜しに行く」
「ダメだ」
「…何で」
「ディルと二人きりになるのが嫌だってんだろ?そんな事じゃ溝が深くなるだけだ。こういうのは早めに手を打った方が良いんだよ」
普段は馬鹿なくせに。 偶に的を得た事を言うからコイツは侮れない。
「…アンタには敵わないね」
「ダチの言うことは聞いとけ」
そう言うと、虎太郎は満足気に笑って此方に手を差し伸べてきたから、その手を借りて立ち上がると今まで俺に説教を垂れていた彼の目は俺より下の位置にあった。
何となく、その光景のおかげでいつもの調子を取り戻したような気がして。
「そうしとくよ…ヴェルを頼んだ。あの子も俺の娘だ」
いつも通りになる様に努めて不適な笑みで虎太郎を見下ろすと、何がそんなに楽しいのか溢れんばかりの笑顔を携えて彼は言った。
「ああ…任しとけ…親父さん」
心の隅を突いた痛みには見て見ぬフリをして、ヴェルを探しに森の奥へ入っていく後姿を見送る。
「参っちゃうね…」
虎太郎が見えなくなってから吐き出された自分を嘲る呟きは、幸運にも誰にも聞かれる事は無かった。
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