#06 ヴェルとトマトと雀のお話

「それ…嫌」

それは、南神殿のすぐ裏手にある海から聞こえる僅かな波音にすらかき消されそうな小さな声だった。
包丁を上下に動かす手を止めて振り返ると、ヴェルは俺の袴を小さな手で掴みながら俺の手元を凝視している。
それ、とは恐らく俺が握る包丁によって真っ二つに切られた、赤い球体のことだろう。
「ヴェルはトマト嫌い?」優しくそう問うと、彼女は小さく頷く。

「どこが嫌い?」
「ぜんぶ」
「全部かー」

味を誤魔化せば何とかなるかもしれないと思ったが、全部と言われてしまったらどう改良すれば良いか検討もつかない。

「匂いは?」
「嫌」
「味は?」
「嫌」
「食感」
「嫌」
「形」
「いーや!」

どうやら、もうトマトの存在自体を拒否している様だ。
今後はトマトを使わない料理を作ろう。
そう自分に言い聞かせた時だった。
俺は思い出す。
二人が神託を受けた時の、オーディン様の言葉を。
俺は二人の護衛であると同時に教育まで任されている。
ここで、はい、そうですか。と引き下がっても良いのだろうか。

「お母さんはヴェルがトマト嫌いなの知ってるの?」

知らない訳ないだろうと思いながら一応訊いてみると、案の定肯定の返事が返って来た。

「お母さんはヴェルがトマト嫌いなの知ってて食べさせる?」

この答えも肯定。
きっと、ナンナさんは二人を好き嫌いのない子供に育てたかったのだろう。
それならば、俺が勝手にトマトを食べなくても良い環境をヴェルに与えても良いのだろうか。
いやいや。そんな筈は無い。
何としてもヴェルにトマトを食べて貰わなければ。
こうして、この日から俺とヴェルの、トマトを巡る熱い攻防戦が続く事になったのだった。


*****


大抵の子供なら、一度は親に言われるであろう台詞。
それを言う側の立場に、こんなに早く立つことになるとは今まで予想もしていなかった。

「ヴェル、好き嫌いしちゃダーメ。トマト食べなさい」

いつもより幾分低めの声色になってしまった事は、自分でも気付いていた。
ヴェルは目に涙を浮かべながら、フォークでトマトを転がしている。
ディルをチラリと見ると、心配そうに姉を見つめていた。
彼女のお皿にトマトが無いという事は、ディルはトマトが食べれるという事か。
双子でも食の好き嫌いは似ないらしい。

「すずめのいじわる…」
「意地悪で結構。ヴェルがトマト食べれたらね」
「トマト嫌いって言った」
「うん。聞いたよ」
「トマト…美味しくないもん」
「そう?ディルは食べてるよ?」
「ディルちゃんはトマト好きだもん」
「そう。じゃぁヴェルも食べて」
「すずめも嫌いな食べ物あるでしょ?」
「…俺もヴェルくらいの時は、ピーマン食べれなかった。けど、今は食べれるよ」

ヴェルはもう何も言い返せなくなったのか、「むー」と奇妙な唸り声を発しながら、トマトから出てきた種を手持ち無沙汰に弄っていた。

ディルが食べ終わって、もうかなりの時間が経過している頃だというのに、ヴェルはまだトマトを突いている。
突きすぎて、もう原型を留めていない程だ。
流石の俺もそこまでサディスティックな性格では無いから、見ていて胸が痛む。
確かに、トマトが嫌いだって聞いてるのに何の調理もせずサラダの具として出してしまった此方に非が無いとも言えない。
ヴェルの涙が頬を伝うのを視界に入れ、この辺りで降参してやるかと心の中で呟き、席を立った。
トマトの入ったヴェルのサラダ皿を持って流し台へ向かう。

「すずめ…」

震える声が聞こえて振り向くと、トマトを前にした時よりも大粒の涙がヴェルの頬を伝っていた。

「何?」

優しく訊ねると、ヴェルは少し戸惑った様に視線を逸らして、また俺の目を見る。

「怒ってる?」

ああ。トマトを残したから怒って取り上げたと思ったのか。
安心させるように首を横に振ってニッコリと微笑むと、それを見たヴェルは少し不安が拭えたのか、肩の力を抜いた。

「怒ってないよ」
「ホントに?」
「ホント」
「トマト食べれなかったよ?」
「そうだね。トマト食べて欲しかったなあ」

ヴェルを落ち着かせる様に会話をしながら、冷蔵庫に向かう。
中から布巾を被せたお皿を取り出してそれをヴェルの前に置くと、ヴェルが不思議そうに俺の顔を見た。

「布巾、取ってごらん」

ヴェルは小さな手で布巾の片隅を掴み、そろりと慎重に剥ぎ取った。
現れた物を見て、ヴェルの表情に明るさが戻る。

「プリンだー!」

布巾の下には、ちょうど良い堅さに固まったプリンが二つ。
本当のところ、プリンはトマトを食べてくれた時の口直しとして作っておいたのだけれど、涙目のヴェルを見ている内に可哀想になってきてしまって。
匂いも形も嫌いなトマトの前に一時間程座っていたのだから、ご褒美に値するかと思って出してしまった。
俺も案外子供に甘い所があるんだな。

「ディルの分もあるから呼んでおいで」

俺が今のうちに洗い物をしようと水を出していると、後ろからヴェルが「むー」と唸っている声が聞こえてきて、気になって彼女を見ると、プリンを見つめたまま困惑した表情を浮かべていた。

「どうしたの?ディル、呼んであげなよ」
「たぶん…ディルちゃん食べないと思う」

両手をテーブルの端にちょこんと乗せて、彼女は言った。

「どうして?」
「ディルちゃん…甘いお菓子嫌いなの」
「お菓子?」

お菓子が嫌いな子供なんて聞いた事が無い。
実際、ヴェルのポケットには常時溢れんばかりにお菓子が入っていて、先日もチョコレートは体温で溶けてしまうから、ポケットに入れちゃ駄目だよと注意をしたばかりなのだ。

「でも、ヴェルはいつもお菓子食べてるよね?」
「ヴェルちゃんは、甘いの大好きだよ」
「ディルは一緒に食べないの?」
「うん。いっつもディルちゃんは食べないの。ヴェルちゃんがお菓子食べてるとこ見てるだけ」

ヴェルのポケットは、某四次元ポケット並みに大量のお菓子が出てくる。
それは二人分だと思っていたのに、一人分だったのか。
これは、購入する量を考えなくては。健康に悪すぎる。

「あ。ディルちゃん」

ちょうどそこへディルが喉が渇いたから、とやって来た。

「ディル、甘いものが嫌いなの?」

そう聞くと、ディルはギクッと身体を強張らせた。

「でも、お菓子食べれなくても…死なないもん」ディルは、無理やりお菓子を食べさせられる事を想像したのか、必死の形相でそう告げると、「それじゃあ、ヴェルちゃんだってトマト食べなくたって死なないよ」と、ヴェルも負けじと応戦した。

正直、悩んだ。
「トマト」は野菜で、「お菓子」はデザート。
野菜は栄養だけど、デザートは嗜好品。
栄養のあるものを無理やり食べさせるのは分かるけど、嗜好品を無理に食べる必要はない。
でも、二人とも嫌いな物がある事は同じなのに、一方が辛い目をして、もう一方が難を逃れるというのも不公平な話だ。
どういう風にすれば二人の教育に良いのだろうか。
じっと思案している間にも姉妹喧嘩が大きくなりつつあって、慌てて仲裁に入ると、ヴェルが「何でヴェルちゃんだけ嫌いな物を食べなきゃいけないの?」と 、また涙ぐむから言葉に詰まってしまった。
ただ…ごめん、としか言えなくて。
どういう意味で謝ったのか、自分でも分からなかった。


*****


「ほー。お菓子が嫌いねー」

暇だからという理由で南神殿にやって来た虎太郎は、縁側に腰掛けて、波に反射した光に目を細めた。
ヴェルとディルは砂浜で山を作って遊んでいる。

「そんな呑気もんじゃないよ。不公平だとは思うけどさ…お菓子を克服するなんて意味があるのかどうか…」

正直、今日は虎太郎が来てくれて良かった。
一人じゃ解決に向かわなさそうだし、二人といるとほんの少し居た堪れなくなっていたから。

「ま。確かに難しいけどな…お前はどう育てたいんだよ」
「どうって…」
「これから先二人が成長していく上で、お前の一つの判断がアイツ等の人格形成に微妙に関わってくるだろうな。いや。寧ろ、すでに雀と出会った事で変わってるのかもしれねー」
「責任重大だね」
「お前だけじゃねーよ。俺だって当主が決まれば変わるかもしれねーし、変えるかもしれねー。人格なんてそんなもんだ。お前が一番分かってんじゃねーの?」

虎太郎の最後の台詞は思い当たる節があった。
忘れもしない。
虎太郎と初めて出会って、言葉を交わした時の事。
そうだ。俺は、虎太郎と出会って変わった。

「…そうだね」
「お前は、二人の親代わりとして二人を育てる義務がある。同時に、どう育てるのか選ぶ権利もある。…どういう育て方をしたい?どういう大人になって欲しい?」
「俺は…思いやりがあって優しくて…強い子になって欲しい」
「答え、出たんじゃねーの?」
「これで合ってるのかなー」
「お前なら良い道を選択出来るって、俺は信じてるし…爺さんも信じたから、お前に二人を託したんだろ?」

確かに…二人が当主だと紹介された時に、オーディン様に言われた。
「お前さんになら託せると思って、敢えて成長を待つことなく力を授けた」と。

「ホント…虎太郎って、チョイスが上手いよね」
「は?…何の?」
「なんでもない」

今も、初めて会った時もそうだった。
虎太郎は、必要としてる時に必要としてる言葉をくれる。
本人は無自覚なんだろうけど、彼に救われた事が何度もあるのだ。

「ディルにも、お菓子克服して貰う」
「そっか」
「克服する事に意味があると思うから」
「おう」
「少しで良いから。一口で良いから」
「そうだな」
「…変…じゃない?」
「雀が考えたことだからな。変じゃねーよ」
「…ありがとう」
「おう」

ヴェルとディルが作った大きな山には、いつのまにかトンネルが開通していた。



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